本来、IT業界でSESの引き抜きはタブーであるという暗黙の了解がありますが、実際の所撤退や人員削減のタイミングに、常駐先から引き抜きの声がかかることは意外と多いものです。
業界内で本来はタブーとされる引き抜きですが、法律的に何か問題はあるのでしょうか。
また、問題がある場合、損害賠償などの責を負わなければならないリスクはあるのでしょうか。
この記事では、SESの引き抜きは本当にタブーなのか、法律違反で損害賠償を求められるような事態になるのかということについてまとめてみます。
Contents
SESの引き抜きは法律違反ではない
結論から言うと、エンジニアを引き抜く企業、引き抜かれて転職するエンジニア、両者ともに法に触れることはありません。
根拠となるのは、憲法で定められている「職業選択の自由」です。
【日本国憲法 第22条】
〇日本国憲法(昭和21年憲法)第22条第1項においては、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」と規定されており、これは、職業選択の自由を保障しているものである。
○この「職業選択の自由」は、自己の従事する職業を決定する自由を意味しており、これには、自己の選択した職業を遂行する自由、すなわち「営業の自由」も含まれるものと考えられている。
(引用:https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000002x4pz-att/2r9852000002x4v6_1.pdf)
つまり、引き抜きの勧誘を受けたエンジニアが、自分の意志で転職を決めるのならば、それは「職業選択の自由」であり違法とはなり得ないのです。
雇用者は従業員の退職の意志を拒否することは不可能で、拒否することは個人の職業選択の自由を阻むこととなり、雇用者が罰せられるケースもあります。
よって、勧誘をした企業も法に触れることはなく、損害賠償をする責任も発生しません。
ただし、すべての引き抜きがそうとは限りません。
中には下記のように訴訟に発展するような悪質なケースもあるため、注意は必要です。
でも、SES会社からSES会社に鞍替えするだけで何か変わる訳でもないので、すぐ辞めてしまいましたけどね。
違法と見なされ損害賠償が発生するケースもある
違法か違法でないかの境界線は、常識の範疇を超えているか、悪質か否かということです。
常識の範疇を超えた悪質な引き抜きは違法となり、訴訟、損害賠償請求にまで発展します。
では、具体的にどのようなケースが違法となるのでしょうか。
企業が訴えられるケース
多数の従業員を引き抜いた
SES企業は自社のエンジニアの人数やスキルがそのまま売り上げに直結します。
そのエンジニアを大量に引き抜かれた場合、会社の存続危機に陥るリスクが生じるのです。
よって、多数のエンジニアを引き抜く行為は悪意があり、悪質であり、違法となる可能性が極めて高くなります。
昭和62年の東京コンピューターサービス事件では、多数の従業員を引き抜き会社に損害を与えたとして、東京地裁の判決で損害賠償の請求が認められた判例があります。
計画性が認められる
単なる転職の勧誘の範囲を超え、勧誘から転職までに計画性があると認められる場合、訴えられるリスクがあります。
法の世界では「計画性=悪意、悪質」と捉えられるため、綿密に練られた引き抜き行為であった場合は違法となる可能性が高いです。
例えば、今のSESとの契約終了時期を漏らしたり、現職への退職交渉の方法や時期、条件などを事細かに指示していたりする場合は「計画性あり」と認められます。
元幹部が引き抜きに関わっている
もともとSES企業の責任あるポジションにいた人間が、退職後に前職の多くの部下を引き抜いたりした場合は法に触れる可能性があります。
前職での影響力のある人間が引き抜きに関われば、動く人間も多くなります。
また、幹部であった人間ならば社内の機密情報も知り得るため、引き抜きをされる側の損害も大きくなることが予想されます。
個人が訴えられるケース
まず、労働者には誠実義務があります。
「使用者の正当な利益を不当に侵害しないよう配慮する義務」がある。これが誠実義務である。
労働者が負うべき誠実義務には、使用者の信用・名誉を毀損しない義務、二重就業禁止義務、秘密保持義務、競業避止義務がある。
これらの誠実義務に違反した労働者に対して、解雇等の懲戒処分や、場合によっては損害賠償を請求することもあり得る。ただし就業規則等にその旨が、明確かつ具体的に規定されていることが必要である。
(引用:https://www.rosei.jp/jinjour/article.php?entry_no=49816)
まず大前提として、企業は企業に損害賠償請求するケースは多くありますが、個人にすることは稀です。
ところが、この誠実義務に反し、企業に大きな不利益をもたらすような行動をした場合は、罰せられる可能性が高くなります。
機密情報を持って引き抜き先に転職する
誠実義務の中の秘密保持義務、競業避止義務にあたります。
入社時に「競業企業への転職はしない」というような契約書を書かされる場合もありますが、上でも書いた通り個人には「職業選択の自由」があるため、あまり大きな問題にはなりません。
しかし、社内の重要機密を持って競業企業に引き抜かれるとなると、その機密情報が流出することで会社に損害が出る可能性があるため、訴えられるリスクが大きくなります。
機密情報にアクセスできる立場でなければあまり関係ありませんが、役職に就いている場合などは注意が必要です。
このように、不正競争防止法には立派な刑事罰もありますし、民事上で損害賠償を請求されることもありますので、完全アウトです。
他社員も勧誘して転職する
引き抜きの勧誘を受けたからといって、他の同僚や部下を一緒に誘って引き抜き先に転職するようなことはNGです。
上でも書いた通り、多くの従業員を引き抜かれたり、幹部などの役職者が他の社員を勧誘することは、企業にとって不当行為です。
その行動によって引き抜き先の企業が訴えられる事態を招く可能性があるため、絶対にしない方が良いです。
退職していないのに転職先の仕事をする
二重就業禁止義務にあたります。
引き抜きで転職することには問題ありませんが、退職日以前に転職先の仕事をすることはNGです。
損害賠償までされるのはごく稀なケースですが、懲戒処分等でも職歴に傷が付くことになり、今後の転職の難易度が上がってしまいます。
そういったことにならないよう注意して、退職と引き抜き先への転職をすることをおすすめします。
SESの引き抜きがタブーな理由はSESの事業特性が理由
上でも少し触れましたが、SES企業はエンジニアありきの業態です。
エンジニアの人数やスキルがあってこそ成り立つビジネスモデルのため、優秀なエンジニアを引き抜かれてしまうことは大きなダメージになります。
そのため、業界内ではSESからの引き抜きはタブーとされてきました。
このタブーをおかしてしまった際に起きやすいトラブルが、取引の中止です。
常駐先に優秀なエンジニアの引き抜きをこれ以上されたら困るという懸念から、取引自体を断るSES企業もあるでしょう。
また、業界内で引き抜きの噂が広まれば、他SES企業との取引も断られる可能性もあります。
SES企業の中には、常駐先への転職をしないという旨の誓約書をエンジニアと交わしている企業もあります。その場合トラブルが大きくなることもあるため、注意が必要です。
SESの引き抜きは企業にとってはメリットが多い
では、なぜ業界内のタブーをおかしてでも、企業はSESからの引き抜きをするのでしょうか。
理由は引き抜きをするメリットが企業にもあるからです。
即戦力を得られる
既に現場で仕事をしているエンジニアなので、その仕事ぶりや技術力は把握している状態です。
通常のフローで採用するエンジニアよりも実力を把握できているため、パフォーマンスの予測もしやすいのです。
こう言ってはなんですが、インターンシップみたいなものですな。
採用コストが少なく済む
通常の採用フローでは、求人広告を出したり、人材紹介会社に紹介を依頼したりするため、多くのコストがかかります。
人材紹介経由で採用した場合には、提示年収の30%程度が相場の仲介手数料を人材紹介会社に支払わなければなりません。
一方引き抜きでエンジニアを採用できた場合、そういった採用コストがかからない上に、即戦力であるため入社後教育にもあまりコストがかからないのです。
人材不足に窮するIT業界で、即戦力となるエンジニアを低コストで採用できる引き抜きは、企業にとっては大きなメリットとなります。
業界内でタブーとされていても、そういったメリットを享受したい企業は引き抜きをしているのが実情です。
SESエンジニアにとっても引き抜かれることはメリットがある
SES企業で客先常駐として働くエンジニアにも、引き抜きによる転職はメリットがあります。
既に働いたことのある現場で働ける
SES企業で働くエンジニアにとって大きなストレスとなるのが、派遣先が変わるごとに新しい現場の環境に慣れることです。
上司を選ぶことはもちろん不可能ですし、殺伐とした雰囲気の現場に派遣されることも多々あり、ある意味運が左右するようなところもあります。
しかし、客先常駐として働いていた企業に引き抜かれる場合、仕事内容はもちろん、社内の人間関係を既に多少なりとも把握した状態で業務に臨むことができます。
全くのゼロから自分の場所を作っていくわけではないので、働きやすい環境に身を置けることは大きなメリットと言えるでしょう。
年収が上がる可能性がある
企業は引き抜きを成功させるために、「今よりも少し給与は上げられるよ」といったメリットを伝えてくることが多いです。
実際商流が一段上に上がるため、現職のSES企業よりも給与が多少上がる可能性は高いと考えられます。
今よりも良い就業環境で、年収も上がるとなれば、エンジニアにとっては大きなメリットとなります。
ただし、単なる口約束ではないかという点については、見極める必要があります。
スキルアップやキャリアアップのチャンスがある
SESのエンジニアとして派遣されるのと、転職して正社員として働くのでは、任される仕事の幅が異なります。
一般的に、SESエンジニアはスキルアップやキャリアアップのチャンスが少ない仕事です。
常駐先で任される仕事は単調なものが多く、それ以上の技術を身に付けるチャンスを職場で得ることは困難です。
しかし、正社員となれば、派遣SEと同じ扱いではなく任される仕事の幅は増えるでしょう。
とはいえ、新しい技術を身に付けようとする努力や、業務で高いパフォーマンスを上げようとする姿勢がなければ評価はされません。
チャンスをつかむための努力は怠らないことが重要です。
一方、しっかりとした企業は、階層別研修の制度がありますので、能力開発の機会を与えてもらえます。
SESエンジニアが引き抜きで転職するのはリスクを伴う
SESエンジニアにとって、引き抜かれて転職することはメリットばかりではありません。
通常の転職とは異なるリスクが伴うため、そのリスクを認識しておく必要があります。
引き抜かれたことは前職企業にいずれ知られる
引き抜きで転職する場合、取引先に転職するため、遅かれ早かれ引き抜かれて転職したことは前職にバレてしまいます。
前職の同僚や上司が転職先に客先常駐として派遣されてきた場合、気まずい状態になる可能性があることは念頭に置いておく必要があります。
特に気にしないというエンジニアも多いのですが、プロジェクトを円滑に進めるためにコミュニケーションは発生するため、あらかじめ覚悟しておきましょう。
しかも、現場は今までと同じという地獄のような状況(苦笑)
転職先の実態が良いものだとは限らない
引き抜かれて転職してみたら、職場環境がまったくよくなかった、給与がまったく上がらないということはよくあります。
客先常駐の立場から見るのと、社員として見るのでは、意外と見え方が違うものです。
引き抜きの勧誘があったからと喜々として転職を決めるのではなく、自分がその企業で社員として働く状態をよくイメージしてから意思決定をすることを強くおすすめします。
基本企業の情シス部はSIerやベンダーに丸投げで、設計書すら書きませんから。
出世できるとは限らない
スキルアップやキャリアアップのチャンスがあると上で書きましたが、必ずしも出世が出来るとは限りません。
引き抜きというと、ヘッドハンティングのようなイメージを持って、出世が出来ると考える人も多いのですが、SESの引き抜きは少々異なります。
企業は低コストで仕事が出来る人間を採用するメリットを享受するために引き抜きという手段を取るのであり、出世を期待しているとは限らないのです。
自分よりも優秀な社員が多くいる可能性はもちろんの事、プロパー社員のように出世ルートにすぐ乗れるとは限らないため、大きな期待をしない方が無難でしょう。
出世を狙うのであれば、転職活動をして、完全実力主義の会社に中途社員として入社する方が近道です。
実は別の人にも声をかけているかも
一つのリスクとして頭にいれておいていただきたいのは、引き抜きをするような企業は色々な人に声をかけている可能性があるということです。
上記の繰り返しになりますが、採用コストを抑えようという目論見があるからです。
昨今エンジニアの採用コストは高騰し一人あたり数百万円かかるケースがざらにあります。
つまりあなたが特別なので是非採用したいという訳でなくとりあえず声をかけて入社になったらラッキーくらいの考えでいる企業もあるということですね。
もちろん大手企業からのお誘いだったり破格の年収を提示されているのであれば前向きに検討すべきですが、一度冷静になり、本当に買いたたかれてないか、自分にとってメリットがあるのか、じっくり検討する方が今後の為です。
お誘いがあり評価され嬉しくなる気持ちはわかりますが・・・。
エンジニアは見た!実際の引き抜き事例
引き抜きを断ったケース
実際に私の同僚が引き抜きにあったことがあります。彼は入社2年目の時から、5年以上某メーカーの情報部門に同僚と数人で常駐していました。その情報部門には、私の会社だけでなく、小規模な開発会社が複数常駐していましたね。
コツコツ開発するのが好きで、真面目な奴でしたが、ある日、その情報部門にスカウトを受けたのです。
本人は悩んでいましたが、それもそのはずです。結局、引き抜きによって転職したとしても、勤務場所はその情報部門のまま、使われる側から使う側に席が移動するだけです。しかも、自分以外にも私の会社の同僚が常駐しており、それらの人を使う立場になる訳です。
結局、その同僚は人間関係の破綻を避けるために引き抜きの話を断りましたが、最終的にはそれが吉と出ます。その情報部門が四国に移転したのです。外注だったからこそ、そのタイミングで契約を打ち切り、東京に残ることができましたが、引き抜かれるまま情報部門に入っていたら・・・。
今では笑い話ですが、常駐をしている人が簡単に引き抜きに乗ってしまうと、こういったリスクもあるということは忘れないでおいて下さい。
引き抜きに乗ったケース
これも私の体験ではないのですが、あるメーカーへのERP導入プロジェクトに携わっていた小規模開発会社の人が、そのメーカーの情報部門に引き抜かれたということがありました。
引き抜かれた後には、開発会社のカウンターパートになり、反対の立場で今までの同僚達と毎日顔を合わせることになってしまい、やはり開発会社側の人たちは文句を言っていましたね(笑)
給料の面では、転職前が小規模なSES会社だったために、かなり上がったようです。転職先も上場企業でしたから、ある意味キャリアアップとも言えなくもありません。この点ではメリットがあったようです。
デメリットとしてはやはり、上記のように元同僚達から悪口を言われることと、今後導入したERPがその会社で使われ続ける限り、未来永劫その担当として運用保守に携わらなくてはならないということです。
勿論、別の担当にしてくれと要望を出すこともできなくもないでしょうが、当ERPのエキスパートとして入社した以上、現実的には難しくなります。一方、開発会社であれば、導入プロジェクトが終われば、別の案件に行くことができます。そのERPが嫌でもせいぜい1~2年の付き合いで済むのです。
このようなメリット・デメリットを熟慮に入れて、引き抜きに対処しましょう。
転職によって常駐から抜け出し、年収UPを実現させた人に話を聞いてみました
まとめ
まとめます。
- SESの引き抜きはよくある話
- SESエンジニアの引き抜きは違法ではない
- 引き抜き方によっては違法とみなされ、企業も個人も罰せられる可能性がある
- SESはエンジニアありきのビジネスモデルのため、業界内で引き抜きはタブーとされている
- タブーでも引き抜きをする最大の理由は、採用コスパの良さ
- 引き抜かれるエンジニアにもメリットはあるが、リスクもついてくる
SESエンジニアの引き抜きは違法ではありませんが、やり方次第では法に触れるリスクもあります。
また、引き抜きをする企業は低コストで優秀な人材を得たいという考えが強いため、エンジニアにとってはメリットだけではなくリスクもついてくるということは念頭に置いておきましょう。
引き抜きの勧誘を受けたからと転職を決めるのではなく、今後自分はどうありたいのかということをしっかりと考え、その考えに合った方法で転職することをおすすめします。